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アウシュビッツ収容体験を語るソボレヴィッチ氏

収容所生活を振返って

講師 Mr Tadeusz Sobolewicz タデウズ・ソボレヴィッチ氏 2008年10月1日 クラコフにて

アウシュビッツ収容所
アウシュビッツ収容所

私はこれまでホロコーストに関する3冊の本を出しており、アウシュビッツ収容所博物館が出版した”But I survived”はイギリスだけでも77万部のベストセラーを記録しています。日本でも翻訳されて出版されるように希望しています。

父と私の反ナチス運動

1939年9月1日、ナチス・ドイツは海軍練習生と偽った軍人たちがポーランド北部の港町グダンスクを攻撃しました。グダンスクは1週間で敗北しましたが、その後は2か月にわたり、ポーランド各地で戦闘が続きました。
私はクラコフから東へ80kmほどにあるタブナウTabnowという町に住んでいました。父は軍人で、この町の軍隊の要職についていました。ポーランドが降伏し、戦争が終わっても、各地で市民たちが銃殺されるとか、暴行を受けるなどの残虐行為が続いていました。父はナチスに抵抗するためにレジスタンスを作り、秘密裏に活動を開始しました。
私はボーイスカウトに所属するほんの子どもでした。しかし、ボーイスカウトもレジスタンス運動に参加しました。私は若かったので、実際の活動ではなく、手紙や書類を運ぶ役を担い、ポーランド人やユダヤ人の被害を知らせていきました。

弾圧と収監

1年を過ぎたある晩、ナチスがきて、自宅を取り囲みました。私と父は、窓から逃げ出し、暗闇にまぎれて逃亡しました。なんとかクラコフの北西50kmほどのチェストハヴァCzestochowaまで逃げのび、偽名を使って4か月ほどレジスタンスで活動をしていました。
ある夜更けに、アパートに2人のゲシュタポがきました。レジスタンス運動を弾圧するナチスの秘密警察の警官たちでした。私も父も捕まり、留置場で厳しい取調べが始まりました。その日、レジスタンスの若い女性が逮捕され、関係者の名前を言ってしまったそうです。父は、激しく殴られたためか目の周りが黒く変色し、鼻血を流していました。
私は16歳と若かったのですが、車の荷台に乗せられ、周りを有刺鉄線で囲まれて、アウシュビッツ収容所へと運ばれました。アウシュビッツに着いてから、「働けば自由になる」門をくぐって収容所に入れられました。中のドイツ人は悪者ばかりで、1日中殴られてばかりいて、本当に恐ろしい思いの連続でした。

収容所に入れられて

アウシュビッツ収容所は1940年に開設され、42年まではポーランド人のための収容所でした。ホロコーストは、最初は反ポーランド活動でした。そのあと反ユダヤ人に変わっていきました。
収容所では、毎朝囚人たちが広場に集められて、収容所の看視部隊となったSS隊員(ヒットラーの親衛部隊が発祥)やドイツ人囚人たちから点呼を受けました。名前を呼ばれ、「脱帽」、「帽子をかぶれ」と命令されました。ドイツ語がわからない囚人たちの行動が遅れると、命令者たちは囚人たちを殴りました。
15人ほどの班に分けられ、2時間ほど訓練を受けました。帽子の着脱、ジャンプなどをさせられ、できないと激しく殴られました。
私は学校で習ったからドイツ語がわかりましたが、老人や、ゲシュタポに刑務所などで拷問を受けてきた人たちは、命令通りに動くことができませんでした。訓練が終わると、所長がきて、ドイツ語で演説していきました。

過酷な強制労働の現実

仕事中の規則は厳しく、働けない人にとっては電気が流れる有刺鉄線に触ったほうがましなほど苦しかった。ユダヤ人囚人は2週間しか生きることができませんでした。神父は1か月生きられました。他の人は3か月生きられました。
私は、毎日、グループで外で建築に従事しました。仕事は、セメント粉が入った重い袋を貨物列車から倉庫まで40mほどを運ぶことでした。囚人たちは靴がなく、木靴のようなものを履いていました。色々な罰があり、袋を落とすと殴られ、運ぶのが遅いと2人のSSから殴られました。度重なると上司がきて、長い間金属のプレートで頭を殴って殺しました。
1日の労働時間は10時間で、戻るときには、10人の死体を運んできたこともありました。
重労働では、たくさん食べたい。しかし、食べ物はパンに指先ほどのマーガリン、週の2回ママレード、チーズが少し。朝は草を煮出した飲み物、昼食は野菜のスープ、それも腐ったジャガイモのスープ。肉や脂分がなく、3週間たったらみんな弱くなりました。いつもお腹がすいていました。
そんな私たちに、SSのチーフが「これはおいしいものだ」と言ってだしたことがありました。それは人の尻の肉でした。人間の肉も食っていたのです。

罪のない人々に向けられた銃口

ある日、SSのチーフがきて、木靴をとって、ブーツをくれました。何のためかわかりませんでしたが、これから違う仕事になりました。1日中、川の中に立って、砂利や小石をとって手車に入れました。それは建築に使われました。
我々のグループは、SS隊員のガードマンに囲まれていました。SS隊員の間を通ることは禁止でした。外へ行くことが必要な場合は、帽子をとり、ドイツ語で囚人番号と理由を言って依頼すれば、あとはOKになりました。
時々、囚人たちはドイツ語の命令がわからないことがありました。脱帽が遅いことがありました。できないと向こうへ行けと指示され、そこでSS隊員がピストルで撃ち殺す。そんなことが何回もありました。SS隊員は書類を書き、脱走者を殺したことにしました。1人殺すと、SS隊員は2〜3日の休暇をもらえました。

劣悪な衛生状態のなかで 〜病との闘い〜

収容所に入ったときは、120人くらいが床に寝ていました。いまの収容所で見た3段ベッドはあとで作られたものです。毛布は3人に1枚でした。石鹸はなし、歯ブラシもなし、食べ物もありませんでした。
問題は虫でした。しらみがいて、チフスを広めていました。私も病気になり、点呼のときに倒れました。そういうことは規則違反だったので、友人が外へ運んでくれました。2人のドイツ人がきて、1人がどうせ死ぬといい、1人がブーツをとりました。病院に運ばれて、医者が腹に赤い斑点を見つけました。チフスの発疹でした。
ただ、寝ていました。これは天国だと思いました。歌が聞こえました。収容所に入って最初のクリスマスでした。家族と一緒に過ごすのは無理でした。両親は他の収容所にいました。母がいたのはウラベツビクトの収容所でした。私が目を覚ますと、ほかの人たちは私が直ったといいました。実際にはすごく弱っていて、歩くことさえができませんでした。体重は32kgでした。
病院は死ぬ人が多く、食べ物がたくさん残っていました。私はよく食べて元気になり、ほかの囚人たちを助ける力が出来てきました。掃除、死体運び、囚人番号の記入、看護師の手助けなどをしました。200人くらいの死体を焼却場に運びました。

死への恐怖

1942年に医師のメンゲレが選別を開始し、元気な人と、そうでない人を分けました。囚人は裸でSS隊員医師の前に立ち、右か左か判別されました。右は死を意味しました。病気の人は、フェノールの注射で殺しました。人数が多いときは、ビルケナウのガス室へ移送して殺しました。
みんな、毎日、本当に怖いという気持ちでした。毎日、死体や銃殺された人を見ていました。収容所から出ることは不可能でした。そんな状況なのに、大勢の人たちが内部でレジスタンスのネットワークに参加しました。色々な情報を集めて、外にあったゲリラ組織に伝えました。
ある人たちは逃げようとしました。しかし、不可能でした。1人脱走すると、点呼して、同じグループや建物から10人が銃や絶食で殺されました。
あるとき選ばれた1人は、自分が殺されると聞き、自分には家族がある、たくさんの子供たちがいる、と言って抵抗しました。すると、別の囚人がきて「この人の代わりに、私を殺してほしい」と言いました。責任者は驚いて、なぜか聞きました。囚人は言いました。「私には家族がない」。責任者は、「お前は何者だ」と糾しました。「私はカトリック神父だ」と囚人は答えました。
責任者は「神父なら構わない」と言いました。この神父は、長崎に6年間滞在して伝道したコルベ神父でした。11ブロックの地下の絶食の部屋で、最後は注射で亡くなりました。
やがて父もアウシュビッツ収容所へきました。すぐにチフスにかかり、病院に入りました。直ったけれど、衰弱しました。そして殺されました。父の死にはがっかりしました。希望を失い、しばしば自殺を考えました。

仕事を転々としながらどうにか生き延びて

ある日、SS隊員がドイツ語がわかる人を探しにきました。私は、学校でドイツ語を勉強したので、応じたら、囚人の登録の仕事に移されました。
私たちは、7人くらいで、同じ部屋に座って、収容所に到着した人たちの名前を書きました。その頃、ユダヤ人がきはじめました。ほとんどがオランダからでした。毎日たくさんの貨物列車が来ても、大多数の人たちは、私たちの机には来ないで、ガス室へ行かされました。年寄り、子どもたち、病人たちはガス室へ。丈夫な人たちだけが登録されました。
子どもたちばかり。第二次世界大戦では、120万人の子どもたちが殺されました。銃殺やガス室で。これは本当に人類の恥です。

オランダ系のユダヤ人がきて、私の机の上の箱の中に金の時計を入れさせられました。こんな仕事は本当にいやでした。違う仕事がほしかった。死ぬ人たちを毎日見るのはいやだと友人に話しました。
次の仕事は囚人たちが夢見るものでした。調理場の中の仕事でした。食べ物がいっぱいあり、チフスが治ったばかりの私は本当に助かりました。仕事は厳しく、労働時間は毎日朝4時から夜10時まで。休憩時間は2時間だけ。重要なのは食べ物でした。自分で食べるだけでなく、他の囚人たちに持っていくこともできました。
この仕事は9か月続き、そのあとはドイツ警察の最高指導者だったヒムラーの命令で、ドイツのブーヘンバルトBuchenwaldの収容所へ送られました。そこで、半年ほど弾薬工場で働かされ、そのあとはライツという町の飛行機工場で働きました。

次の半年は、ドイツ東部の収容所で働きました。そこには色々な国からの囚人たちがいました。ロシア、ベルギー、ドイツ、チェコ、ポーランドなど。
あるときロシア人たちが特別の罰を受けました。食べ物なしで3日間置かれ、追加の罰として、他の国の囚人たちに、ロシア人たちの前で食事をさせました。ロシア人たちは怒って、こんなみじめな状態に置かれるよりも、戦って死んだほうがいいと武器を奪って蜂起しました。
ロシア人だけでなく、他の囚人たちも立ち上がりました。私も、戦いの最中に逃げ出すことができればいいと、動きました。SS隊員たちに撃たれて、狭い窓から逃げようとしました。しかし、スペースがなくて脱出できず、3時間もとどまっていました。この戦いで私はひどい火傷を負いました。生き残ったのは奇跡そのものでした。すべて友人の看護師のおかげでした。彼がすごく援護してくれました。

次は、レーヴェンスブルックRavensbrueckというドイツの収容所へ移されました。再び調理場の仕事があり、時々囚人にパンを渡したりしました。あるときはSS隊員に見つかって、ひどく殴られました。このSS隊員はサディストで、アウシュビッツ収容所でも働いたことがありました。
囚人にタバコをあげて、火をつけてやり、2m離れろと命令し、ピストルでタバコを撃ちました。囚人が死ぬほど驚くのを見て、喜んでいました。囚人たちは来たときは元気でしたが、すぐに衰弱し、簡単に犠牲になっていきました。

アメリカ軍による奇跡的な解放

1945年春、レーヴェンスブルックの最後の歴史が始まりました。ついにアメリカ軍が近づいてきました。囚人たちを違う収容所へと移動させることが必要でした。オーストリアのマウトハウゼン収容所でした。レンゲンスブルクから出発したのは600人で、最後に着いたのは200人でした。全員徒歩で、弱い人は途中で殺されました。ある人はスキを見て逃げました。私も4人で逃げました。
ドイツ南部の農村地帯でした。農家の近くにあった倉庫に隠れました。みんなが移動したころをみて村に入りました。そこのいい性格のドイツ人が助けてくれました。パン、ミルク、卵をくれ、家に泊めてくれました。しかし、実際にはあぶないところでした。翌日、SS隊員たちがきて、付近を捜索しました。私は畑に逃げて、穴に隠れました。
夜になって家に戻ると、ドイツ人が「神様のおかげで助かった」と言いました。隣の家では、囚人たちが見つかり、すぐに銃殺されたそうです。SS隊員たちはそんな性格で、命令を守るだけ、人間的な気持ちはありませんでした。
そのあと3日するとアメリカの軍人がきて、これが実際の解放でした。これは本当に喜びでした。

平和を願って

これが私の話ですが、すごく省略しています。実際にはもっと色々なことがありました。結論としては、戦争が一番悪く、戦争を防ぐ事が大切です。戦争は、みんなにとってもっとも苦しいことです。民族とか、人種とか、関係ありません。
戦後20年たって、私はアウシュビッツで、ある日本人と会いました。この人は私の本を英語で読んでいました。私は蜂起のときに肩を火傷しました。彼も同じように、広島で原爆で火傷したと言いました。

その後、私が年金生活者になってから、私の夢だった日本行きを考えました。お金がかかるので、安い貨物船に乗り、3か月かけて神戸の港に着きました。鉄道の切符を買って広島に行きました。博物館に行き、わずか30分位で7万人も亡くなったと知りました。
一番わからないのは、人間はなぜ新しい武器を発明したり、ずっと戦おうとするかです。戦争はなんとしても避けねばなりません。

(愛知県老人福祉施設協議会研修旅行での講義から)

おわりに

ソボレヴィッチ氏の体験談から、当時の囚人達の生活がいかに辛く、過酷なものであったかが伝わってきます。そんな辛い過去があり、そして現在があります。
ぜひ、一度皆さんの目で収容所跡をご覧ください。

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